白薔薇の娘

<白薔薇の娘 28話>
フローラには、グリンダの乳母がつくことになった。ルドマンはこの乳母をあまり好ましく思っていなかったが、グリンダの希望であったし、なによりグリンダを育てた実績があるのだからとあえて反対しなかった。乳母は白髪の交じった黒髪をきつく結い上げ、いつも襟のつまったドレスをきっちり着こんでおり、彼女が必要と感じた躾に対する厳しさは、小さな子供に対しても容赦がないところがあった。それは少し、以前の子供に対するルドマンの態度に似ており、ルドマンが彼女に親しめない理由はそんなところにもあったのかもしれない。しかし彼女は闇雲に厳しいだけでなく、子供の個性や発達に応じた柔軟な態度がとれたし、見かけによらずユーモアを解するところがあった。そうでなければグリンダを育てることなどできなかっただろう。
フローラ付きのメイドは、他の数人のメイドに加え、サリーとジリアンがつくことになった。これはルドマンの意見で、全ての環境を変えてはフローラに負担がかかるだろうという配慮と、ルドマンとフローラの中をうまくとりもった彼女たちへの評価があった。もちろんグリンダは喜んでルドマンの意見を受け容れた。サリーとジリアンはすっかりこの小さな主人に魅せられており、この知らせに一番喜んだのは彼女たちであった。
今までのルドマンの家では、フローラの年頃の子供達はまだ食事のマナーが十分に身に付いていないからと大人達とは別の食卓で食事をとっていた。しかしルドマンの命令で、フローラには最初からルドマン達と同じ食卓に席を設けた。屋敷に代々勤める使用人達の中には密かに眉を顰める者もいたが、多くの者達はこのルドマンの行動をほほえましく、またおもしろおかしく受け取っていた。
フローラは簡単には新しい環境になれることはできず、夕食の席でもしゃちほこばっていたが、彼女が案内された席に高価な装飾の皿ではなく子供用の食器が準備されているのを見て、フローラは少しほっとした。しかし、いままでとは違い多くの人が給仕する食卓にフローラは緊張して、あまり食事はすすまなかった。ルドマンとグリンダは顔を見合わせたが、無理強いはしなかった。


まだ旅の疲れが抜けないフローラは、ふわふわのベッドに埋もれ、レースに包まれて、ルドマンのお話もそこそこに眠りについた。ルドマンと、一緒に楽しそうにルドマンのお話を聞いていたグリンダは優しくキスをしてそっと部屋を出た。
「わたくし、やっとわかりましたわ。」
フローラの部屋を出ると、グリンダがささやいた。
「なにがだね?」
「ふふふ、あなたのお話、あの寝室にある古い本のお話ですわね。」
グリンダがいたずらっぽく笑った。ルドマンは顔を赤くしてそっぽを向いた。その本がルドマンの子供の頃からのお気に入りであること、そして彼の父親もまたその本が好きだったことをグリンダが知っているのを思い出したからだ。

夜中に目を覚ましたフローラは、すぐには自分がどこにいるのかわからなかった。目の前でレースがふんわりと風を含んで揺れている。そっと起きあがると、ベッドから下りた。小さく開いているガラスを開けてベランダに出ると、空には大きな月がぽっかりと浮かんでいた。眼下に広がる景色は月明かりと闇で薄い金色に縁取られ、遠くに街の灯がちらちらと小さく輝いていた。春を迎えても内陸のこの地の空気はまだひんやりとして、フローラのバラ色の頬をいっそう輝かせた。静寂が辺りを包み、木々の息づかいまで聞こえてきそうだ。
フローラは、何かが違う、何かが足りないと感じていた。しかしそれが何なのか・・・
そっと闇に耳を澄ます。きらきらとした月の輝きが地上に落ちる音が聞こえる。月の輝きは木々に、草に落ちてはじけて、そしてそっとフローラにささやきかける。
フローラは、気付いた。このような静寂を、初めて知ったことを。
施設でも、船の旅でも、潮騒がいつもフローラを包んでいた。故郷を離れたときも、波の音がやさしくフローラを慰めていた。しかし、今は・・・
フローラの目に涙が浮かんだ。この数日の急な環境の変化と緊張とを思い出し、フローラの神経は高ぶった。そして、一度思い出してしまうとたまらなく故郷の施設が、修道院が、村が、海が恋しくなった。自分がいるのがどこなのかわからない。けれどもう簡単にはあそこにもどれないことはわかっていた。
ルドマンのことは、最初の頃のように恐ろしいとは思わない。自分を大切にしてくれていることは、小さくてもわかっている。グリンダの暖かさも心地よい。初めてのことや、難しいことがいっぱいだが、サリーとジリアンがこれからも一緒だし、初めてあったおじさんやおばさんも嫌ではない。しかしなにか、締め付けられるような感じをフローラは漠然とだが感じていた。
それは・・・使用人達の、『ルドマンの娘』を見る眼であったのだが、フローラはまだはっきりとは、それに気付いていなかった。
ただただ、故郷が恋しくて、海が恋しくて、涙が止まらなかった。月の輝きがそっとフローラを包んだが、彼女の心を癒すことはできなかった。ベランダの手すりにすがって、声を殺そうとした。しかしあふれ出した感情は止まらない。静寂の中でフローラの嗚咽が響いた。
その時
「フローラ、泣いているの?」
背後から、優しい声がした。はっとフローラが振り向くと、髪を下ろしたグリンダが立っていた。月に照らされたグリンダは、フローラには神々しく、まぶしく見えた。
グリンダはそっとベランダに出ると、フローラに近づいた。泣くのはいけないと思っていたフローラは、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きじゃくりながら言った。
グリンダはフローラをとがめたりなどせず、跪くとそっとフローラを抱きしめた。
フローラは驚き、身を固くした。グリンダは、フローラの心を見透かしたように、優しくささやいた。
「ごめんなさいなんて言わなくていいのよ、フローラ。泣くのはいけないことではないわ。いろいろあって・・・疲れてしまったのでしょう。大丈夫、泣いていいんですよ。」
グリンダの暖かさと、その柔らかいささやきが、フローラの小さなこころをそっと包んだ。その心地よさに包まれながら、フローラは施設を離れて初めて、心おきなく泣いた。

やがて泣き疲れ、グリンダに抱かれたまま眠ってしまったフローラを、ルドマンが抱き上げた。
そっとベッドに寝かせ、布団を掛けると、ルドマンはため息を着いた。
「そんなに・・・ここが、嫌なんだろうか。」
グリンダもため息を着いた。しかしその理由は、ルドマンと同じ悩みではなく、慰めなければならないもう一人の悩みは、なかなかやっかいそうだということに、であった。
グリンダはしばし考え、フローラを見つけるルドマンの腕にそっと自分の細く白い腕を絡めると、小さな声で言った。
「わたくしも・・・ここに来たときは、泣いてばかりでしたわ。あなたはわたくしを大切にして、守ってくださいましたし、わたくしは望んでここに参りました。慣れたらここが大好きになりましたわ。それでも・・・実家が、恋しいときはありました。今だってそうですわ。」
ルドマンは顔を上げ、グリンダを見た。闇の中でも、琥珀色の瞳が輝いているのがわかる。ルドマンはそっとグリンダを抱きしめると、つぶやいた。
「そうだね、そうだった。おまでさえそうなんだから、こんな小さくては仕方ないな。」
ルドマンはグリンダをはなすと、そっとフローラの額にキスをした。そして
「でも、いつか・・・わたしたちを、好きになってくれないかな。」
と、ぽつりと言った。


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