夢の向こう側

<夢の向こう側 30話>
やっとこの地方も梅雨に入ったらしく、その日は朝から冷たい雨が降っていた。雲は厚く、重くたれ込め、時折生暖かい風が吹いていた。こんな雨の日に野宿を好む旅人はおらず、この日もあの始まりの日のように、ダンカンの宿屋は早い時間に満室になった。
雨は日が落ちた後いっそう激しくなり、宿の客達は酒場へも行かず、宿の食堂で軽く呑むと早々に自分たちの部屋へと戻っていった。全ての音は雨音にかき消されていた。

夜も更け、街の灯りが落ちる頃、宿屋の戸を叩く者がいた。
「はいは〜い、今日は〜満室〜で〜す〜」
帰り支度をしていた番頭が、妙な節を付けて歌いながら玄関に急ぐ。
戸を開けるとそこには・・・黒いマントで鍛えられた体と腰の武器を包んだ、ひとめで軍人とわかる男が数人、雨の中に立っていた。
『来た!』
番頭は心の中で叫んだ。自分が持っている勇気と、番頭としてのプライド全てを動員して、彼は低い、落ち着いた声で、ふるえぬよう気をつけながらゆっくりと言った。
「申し訳ございません。あいにく本日は満室でございます。」
「申し訳ないのはこちらだ。我々は客ではないのだよ。」
男達の後ろの方から、声がする。手前に立っていた男達が数歩下がって道を空けると、ひときわ背が高く、眼光の鋭い男が立っていた。
その男は歩み出ると、番頭を見下ろしながら、良く通る声で言った。
「ティムズ・ダンカンというのは、この宿の主人かね?」
番頭の勇気は、男の眼光で吹き飛びそうになった。しかし、相手がプロの軍人なら、自分もプロの番頭だ。ここで負けるわけにはいかない。
背後で事務所から人が出ていく気配がした。残っていた者が、ダンカンに知らせに行ったのだろう。番頭は辛うじて残ったプライドをつかまえると、自分もぐっと背筋を伸ばしていった。
「ティムズ・ダンカンはこの宿の主人でございます。なにかご用でしょうか?」
「うん、少し、聞きたいことがあるんだが・・・ご在宅かね?」
「はい、おります。それでは、こちらへどうぞ。」
番頭は中へと案内した。男達がどかどかと宿の中に入ってくる。
そこで、番頭は緊張のあまり、自分の意志とは関係なく、つい、いつもの言葉が口から出た。
「雨具はここでお預かりします。」
言い終わらぬうちに、しまった!と思った。既に顔はこわばっていたため、表情は変わらなかったが、切られることを覚悟した。
「なんだとぉ!」男の中の一人が右手を腰に持っていく。しかし背の高い男が、小さく手を挙げてそれを制した。
「うん、このままでは不都合かね?」
番頭はもう、全てをあきらめ、職務を全うすることにした。番頭として死ねるなら、本望だ。
「廊下が濡れて、暗い中、他のお客さまが転倒でもなさったら困ります。こんな夜中故、すぐに掃除ができるだけの女中もおりません。お脱ぎいただけないのでしたら、こちらでお待ちいただければ主人を呼んでまいりますが。」
背の高い男は、黙ってマントを脱いだ。一人の男が「隊長!」と小さく行ったが、背の高い男は気にせず、番頭にマントを差し出した。
「うん、君の言うことはもっともだ。失礼した。」
番頭は、丁寧にマントを受け取った。ただでさえ大きく分厚いマントは、雨を吸ってまるで鎖帷子のようにずしりと重かった。
番頭はよるけないようバランスをとりながら受け取ると、「おい、これをお預かりしてくれ!」とカウンターに向かって声を掛けた。
「あ、はい!」カウンターの奥から、やりとりをそっと見ていた夜勤の従業員が2人出てきて、他の男のマントを受け取った。
暗がりの中でも、下に来ているのが軍服なのはすぐにわかった。胸に輝く紋章のデザインに、番頭は見覚えがあった。以前、ダンカンに「研修」と言われて、ラインハットの宿屋に行ったとき、城下や城に飾ってあった紋章と同じ物だ。

「どうぞ、こちらでございます。」番頭は、カウンターの端に置いていたランプを持つと、男達の斜め前を歩き出した。

「どうぞ、お入りください。」
男達が案内されたのは、宿の奥にあるダンカンのプライベートな今だった。質素で、地味ではあったが、前の主人の好みで趣味の良い、しっかりした作りの家具がそろえてあった。
男達が全員中にはいると、「ただいま、主人を呼んでまいります」と言って、番頭は静かに戸を閉めた。
体中の筋肉という筋肉から、全ての力が抜けそうだ。
「駄目だ!これからなんだ!」番頭は小さく、小さくつぶやいた。
旦那さんになにかあったら、わたしがしっかりしないと。番頭は急にふるえだした足を無理矢理動かし、そっと振り向いた。
そして、そこに人が立っているのに気付くと、「うぉ!」と妙な声を出した。
それは、服装を整えたダンカンだった。
「ありがとう。ご苦労だったね。」
「旦那さん!女将さんとおじょうさんは?」
「ビアンカは、女中達が教会に連れて行った。かあちゃんは・・・下で、お茶の準備をしているよ。」
「あ?お茶・・・ですか?」番頭は驚きで、まるで顎がはずれたような、間抜けな顔をした。
ダンカンはため息をついて言った。「全く、強情というか、肝っ玉がすわっているというか・・・」
ダンカンは居間の中の気配を伺うと、番頭に顔を寄せ、小声で言った。
「ところであんた、ビアンカがこのことを何か言っていた覚えがあるかい?」
番頭は混乱する頭で、一生懸命思い出した。
「いいえ、何も・・・」
「だね、あたしたちもだよ」ダンカンはいっそう声を潜めた。「つまりたぶん、大きな騒ぎは起こらないってことだろ。少なくとも、台所のボヤ騒ぎを越えることはないはずだ。」
番頭は最初、なんのことかわからなかったが、やがてようやく理解した。確かに以前ビアンカは、台所からボヤが出ることを知っていて、騒いだことがある。だが、ここ数日は何も言っていなかった。
番頭は「ああ・・・そうですね」とまで言って、壁一枚向こうに男達がいることを思い出し、賢明にも口を閉ざした。
ダンカンは、宿の主人らしい顔をすると、改まって言った。
「今日は満室だ。なにかあったら、お客さまを頼むよ。」
「はい!」番頭は、顔を引き締めると、小さく返事をした。そして、居間に入っていくダンカンを見送った。足の震えはいつの間にか、止まっていた。


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