夢の向こう側

<夢の向こう側 38話>
数年後

いつもなら泊まり客が全て出発した後のこの時間、宿の中は静かなのだが、今日は街の人々が集まり、にぎやかだった。
「本当に、いっちまうのかい?」
「おかみさんがいなくったって、もうすぐビアンカちゃんが大きくなるんだし・・・」
「しかし、あたしも昔のようには働けないからねぇ。」
老けて、まるでひとまわり小さくなったように見えるダンカンには、確かに以前のような覇気はなかった。
「ここを離れるのは寂しいけれど、きっと、そういう時なんだよ。」
ダンカンは寂しそうに笑った。
「でも、向こうで温泉宿の共同経営するんだろ?だったらここだって・・・」
「みなさんがそう言ってくれるのはうれしいけど、もう決めたからね。今度のご主人も、いい方だよ。お若いが、しっかりしていらっしゃる。どうか、よろしくおねがいしますよ。私たちがここに来たときの様にね。」
「まかせときなよ」
「そういやあんたがここに来たときは、ずいぶん突然だったよねぇ」
皆が思い出話を始めたところに、以前とちっとも変わらない番頭が、帳簿を持ってやってきた。
「旦那さん、今朝の分の〆のサインを、お願いします。」
「ああ・・・最後のおつとめだね。」
番頭からペンを受け取ると、ダンカンは帳簿に丁寧にサインをした。
「あんたには・・・本当に、世話になったね。」ペンを置くとダンカンは、番頭の手を握った。
「あんたがいたから、あたしたちは初めての宿の仕事をここまでやってこれたんだ。本当にありがとう。」
ダンカンの小さな目に涙が浮かぶ。番頭は言葉が見つからず、ただ「だんなさん・・・」とだけ言って、涙をこらえた。
しばらくそうしていてから、ダンカンは赤い鼻をすすりあげなかがら笑顔で言った。
「ほんとうに、あんたがたに譲ってもよかったんだけどねぇ。」
「私たちは・・・」番頭はそう言って、ちらりと部屋の入り口に立つ女中頭を見た。彼女は以前よりいくらかふっくらとし、その左手の薬指には、仕事の邪魔にならないような控えめな指輪がはまっている。「気楽な雇われ人がいいんです。番頭の仕事が好きなんですよ。」
「前のご主人にもそう言って、困らせてたね。」
ダンカンの言葉に街の人々は、どっと笑った。番頭もやっと、いつものおだやかな笑顔になった。
「番頭がいるから大丈夫、とおっしゃった前のご主人の気持ちがよくわかるよ。今度の方にも、どうかよろしくお願いします。」
「はい。」
二人は改めて、堅く握手をした。
「そろそろ出発しましょう、ダンカンさん。途中で何かあったら船に遅れちまう。御者がディークですからな。」
街の人々が祈ったためか、日に日に母親に似てくる娘を連れた守衛長入ってきた。
「すみません。本当はわたしが行きたかったんだが・・・」
「駄目ですよ。その間に産まれたら、どうするんですか?」
守衛長の後からやってきた、あいかわらずかわいらしい夫人が、頬を染めて、大きなおなかをそっとさすった。
「ビアンカ、行くよ!」ダンカンは奥に集まっていた若者達に声を掛けた。
「はい、父さん。」澄んだやさしい声が、静かに答える。
「身体に気をつけろよ。」
「手紙、書いてね。」
「泊まりに行くからな!」
若者達が、別れの言葉を口にしながら道をあける。ダンカンの近くまでやってきた返事の主は、小さく「あ!」と言うと、階段へと走り出した。
「ビアンカ!」
「忘れ物!すぐ戻るから!」そう叫ぶと軽やかな足音を残して、あっという間に階段を駆け上った。
「全く・・・すみません、いつまでも、落ち着きが無くて。」
ダンカンが人々に謝る。しかしダンカンも街の人も、困ったという様子はなく、やさしい笑顔で彼女を見守った。

階段の側にある木戸が開くと、薄暗い屋根裏に外からの光が射し込んだ。
ビアンカが静かに歩くと、ホコリが舞い立って、光を受けてきらきらと、まるで宝石の粉のように輝いた。
ビアンカは外から差し込む光の道を、まよわずそっと奥に進んだ。
彼女の手足はすらりと伸び、その肌は光を受けて真珠のように白く輝いた。身体はふっくらとやわらかな丸みを帯び、口元にうかぶ小さなほほえみは、どんなつらい出来事も消すことができなかった。瞳はあいかわらず大きくくりくりとして、やさしく、暖かで、魔物さえ含めた全ての生命に祝福を与える春の空をそのまま切り取ってきたような澄んだ空色をしている。一つに編んで片方に垂らした髪は、雲の隙間からこぼれおちる光の糸を集めたように、柔らかく美しい金色で、まるで自ら輝いている様だ。
あの小さく、幼かったビアンカは、たくさんのよろこびと、大きな悲しみを経験して、美しい娘へと成長していた。
ビアンカは光の道が導く先にある、木の箱の前に立った。
しゃがんで、そっと蓋を開ける。かわいらしい、小さなくしゃみをすると、中をのぞき込んだ。
箱の中は、うっすらとホコリをかぶっているが、昔のままのやさしい想い出がつまっていた。ねこともうさぎともつかない顔のぬいぐるみ、異国の言葉のきれいな絵本、奇妙な木彫りの人形、びりびりにやぶかれたお気に入りだった絵本。
ビアンカは、一つ一つ取り上げては、丁寧にホコリをはらい、ギュッと抱きしめた。

 −−−私は信じる。あの、恐ろしい夢の向こう側に、かすかに感じた事を。

「いつか・・・きっと、迎えに来るわ。待っててね。」
小さく、小さくそう言うと、また一つ一つ、丁寧に箱の中に戻した。
そして、三つ編みの先に結んであった、生前に母親からもらったリボンをほどくと、ぬいぐるみの首にそっと結びつけた。
さらりと髪がほどけ、箱の上に流れ落ちる。黄金の流れは、まるで箱の中の想い出と、ビアンカがこれから歩む未来に、女神が祝福を与えるようにきらきらと輝き、周囲に小さな光の渦を作った。
黄金の輝きに縁取られた、まだ幼さが残るその美しいかんばせに、やさしい、そして少し悲しげなほほえみを浮かべて、ビアンカは箱の中の想い出達に言った。
「今は・・・さよなら。」

ビアンカはそっと、子供時代と少女時代の想い出を閉じた。

おしまい ありがとうございました

おまけのページ アルカパの街の人々のその後のお話 を読みに行く。

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